赤瀬川
―赤瀬川原平(1937〜)の表現を辿る―
目次
イントロダクション
1 原平…
(1960)
2 千円札問題①
(1961〜)
3 千円札問題②
(〜1965)
4 パロディの季節
(〜1976)
5 オツジ
(1979)
6 超
(1972〜)
7 未完のひと
赤瀬川原平略年史/参考文献
イントロダクション
本日は晴天である。カラリと晴れわたっている。空気が透きとおっている。不純物がない。何か不吉な感じである。これは何かが始まる。何か異常なことが。不安である。
まるで白痴美のような天気だと思った。私は縁側にしゃがみ込んでいる。小さな庭。家賃四万五千円。きのう大家さんが刈り落としていった薔薇の枝が、枯れるのを待っている。青い葉はもう紙屑のようになっている。だけど棘はまだ何かを刺そうとしている。この棘の形、刺すぞ刺すぞという形、何かを刺さずにはいられない形をしているけれど、いままで実際に何かを刺したことがあるのだろうか。それとも何も刺さないうちに刈り落とされてしまったのだろうか。
目の前を、濡れた光がチョロリと走る。走った所でじっと止まり、またチョロリと走る。今年初めて見る蜥蜴。薔薇の棘をくぐって、枯草の上を筆のようにすべる。まだ全身が新品である。塵一つついていない。包み紙をはいだばかりの、まだ指紋もついていない新品のカメラ。それが庭の草の間をはいまわっている。ふふふ。あの蜥蜴、いまに尻尾がち切れる。何かに踏んづけられたり、噛み切られたりして、いつかわからないけど、そのうち下品な切口を身につけてしまうだろう。
新品の蜥蜴はまたチョロリと背中を光らせて、植木の根元を通り抜けながら、隣の裏庭に入って行った。隣からはカタン、コトンと、何か工作をしているような音が聞こえる。ここに引っ越して来たとき、これは内職の音だと思った。何かを置く音、こする音、叩く音。そしてまた何かを置く音、こする音、叩く音。内職に特有のリズムの繰り返し。だけどこの音には忙しさが感じられない。ときどき気まぐれのようにはじまって気まぐれのように止んでしまう。それにこの隣は大家さんだ。大家さんが内職でもないだろうし、これはきっと、大家の奥さんの皮細工の音だろうというのが最近の私の考えである。
そんな音が、晴天の空気の中を転がっている。あとは蜥蜴の細い筆先が踏む、枯葉の先のしなる音。本日は晴天である。どうもこの天気が危ない。白痴美というのは危ないと思う。晴れ晴れとして、正月の青空のような、透みきって、淋しくて美しい頬。瞳というのは、まるで波の立たない湖の水面みたいに、眠り込んでいて、その水面に石を落とすと、湖の底まで沈んで行くのがずうっと見えるような、そういう顔がニッコリ笑うガランドウの頭の中に、ギッシリと銀色の刃物がはまり込んでいて、それがいつ頬を破って飛び出して来るかわからない。そういう天気は危ないと思う。晴天の空気がプチリと破れて、いつ毒物があふれ出るかわからない。まわりにはギッシリと透明な熱雷が隠れている。それにちょっとでも指が触れると、体中が黒焦げになってしまう。やはり生きている体にはアースが必要である。男女共通のアースがあれば安心である。男には金属のアースがある。男は金属と友人になれる。だけど女の友人は等身大になってしまう。女には金属の接点が見つからない。これはやっかいなことである。アースのない女には静電気が溜っている。静電気はいつも火花を待っている。火花だけを待ち構えてふくらむ女。
これはまずい。私は縁側でしゃがみ直した。丸い背中に日差しが跳ねる。庭の光の残像が、部屋の中でゆっくり縮む。部屋の隅で、テレビが音もなく光っている。私はまた縁側でしゃがみ直した。庭先にヒラリと紋白蝶が舞い込んで来た。ヒラヒラと上下しながら、無花果の葉、枝、草、無花果の葉、竿、シャツ、枝、あじさいの葉、というふうに、庭中をくまなく点検しながら飛びまわる。紋白蝶はお化粧のパフみたいに、庭の空気のあちこちにパタパタと羽根の白粉をなでつけて行く。晴天の空気がお化粧をして、白痴美がさらに輝やいていく。晴天がそのまま下にゆっくりと沈んで、すぐ目の前の、庭の中まで降りて来ている。ギッシリと透明である。私はガラス屋の中にいる。立てかけられた透明な切口が全部こちらを向いていて、もうほとんど身動きができない。
「お父さん、ただいま」
娘が帰った。
(「肌ざわり」河出文庫、冒頭)
キャラクターはいない。だが、いるように思える。作家の眼が、生身でふわふわと漂っているような。漂い、時に深く深く、どこまででも落ち込んでいく視線。妄想も冗談も取り込み、リズミカルな文体で、誰もが時折目にしているだろう日常の風景を何か怪しげな世界にしてしまった。もの言いは柔らかいが、鋭いタッチが皮一枚裏側、そんな所で尖っていて、ひりひりする。「私」の脳内は危うい情況である。だがその情況より、一連の描写に言葉にできないきらめきを感じて嬉しくなってしまった。何だろうか、この妙なリアリティは。
ある人に、赤瀬川をテーマに卒論を書こうとしている、と言うと、赤瀬川原平とはどんな人?と尋ねられた。勿論氏の経歴や功績についてではなく、どんな人か、である。詰まってしまった。少し間を置き、ようやく「とてつもなく、鋭い、感覚を持つ人です……」と答えた。
他に幾らでも加えるべき答えはあるのに、それ以上は出てこなかった。緊張していたのもあるが、色々な要素があり過ぎて何を言えばいいものか、頭が混乱してしまった。些末な事は言った端から消えていってしまいそうで。多すぎる気がかりが頭を襲う時に似ている。どれも個人的な事で、説明するのにはもどかしいほど時間がかかり、他人にとっては些細な事なので言うのも気おくれする。何より言葉が追いつかない思いがする。で、沢山の一つと一つが重なり合い、巨大なストレス状のものが自分を追い立てる。何処へかは、わからない。とりあえず黙って酒を飲みたくなる。ニヤリと笑いたくなる。その時の自分にとっては重大事だったが、振り返ると大した事ではない。要するに全然整理されていない、とも言えるのだが。
「赤瀬川原平をテーマに文を書く」ことはそのようなものだった。あまりにも正体があいまいで、これ、と言うのは難しい。狼狽するアタマの中で唯一まともに浮び上がったのがこの「肌ざわり」の最初の描写である。私は氏の「前衛芸術家」としての活動を知った後、興味の向くままにこの作品を手に取った。作者の名は尾辻克彦。この作品でデビューし中央公論新人賞を取った、もう一人の赤瀬川である。氏の作品は出来上がった時点で思考の痕跡としてしか残らないものばかりだが、これらの「純文学」作品は何せ「文学」をやってみたのだから、作品として氏の筆跡が生々しく残されている。忙しい生活の隙間からヌルリと、ついうっかり出て来てしまったような描写である。作者の感覚の鋭さ、感覚と思考を繋げて新しい文章世界を生み出すセンス、そして冗談混じりにほのぼのとした晴天の空に白痴美を見出す「私」の姿に、魅かれた。危うい心と日常の境界線上を、揺れ動き続けているような、あいまいな人。
私の答えはどう受け止められたか分からないが、その質問に続けて、どうして千円札を描いたと思う?と聞かれた。また詰まってしまった。今度は千円札作品についての氏自身による様々なことばや、芸術家や評論家の色々な解釈が千切れた断片のまま頭の中を駆け巡った。駆け巡り、自分がもし千円札を描くとしたらどうしてだろうかと考え、
「他にやることがなかったんじゃないでしょうか…」と。身も蓋もない。
作品の解釈として、紙幣という無意識下で事実となってしまっている巨大なフィクションをひっくり返す、また、もう描くことがない、ということを描く、といった様々な理屈がある。宇宙の缶詰ともども、得体の知れない不安を抱えた、コンセプチュアル・アートとして凄く面白い作品だ。
しかし私は、作者がいた四畳半の下宿を思い浮かべた。場所も金もなく時間があり、千円札を、穴のあくほど、あいた穴をさらに視続け時空の裂け目に落ち込んでいくほど観察し続け毎日のように拡大模写を続ける青年の姿。神経質的な。自虐的な。そして現物をまだ見ていないのはいけないのだが、一九六三年の読売アンデパンダンにおいて出品されたその作品(「復讐の形態学(殺す前に相手をよく見る)」)。写真を見るとまさしくフラットに拡大された千円札、という体で、「模型千円札」(千円札を一色刷りで印刷した作品)と準ずる印象を受ける。しかし、実際のところはどうなのだろうか。凄まじい怨念を放っていたのではないだろうか。絵は、生で見ないとわからない。
「作業」を始めた発端。紙を用意して、千円札を用意して、観察、筆に墨をつけ、模写の最初の線。そこにおいて果たして氏の頭の中には何か理屈があっただろうか。勿論ぼんやりした何か、世の中を人の手から手へ絶えず移動しつつも、何故か意識からすり抜けてる肖像画に対する興味、はあったのだろうがその時点ではまだ像を結んでいなかったのではないか。まず体が動いたのではないか。よくわからないが面白そうだ、ヒマだしやってしまえ、と。進めるうちに何となくお札を通した社会の構造、といった作品のコンセプトが見えて来たのかもしれないが、最初からそれらが見えていたらそこで終わってしまう気がする。微細な線を一本一本這うように観察し、「絵画」の何倍もの苦労を経て到底「絵画」には見えない絵を完成させる労苦を思って。
後で色々な答えを思いついて、少し悔しくなった。だが今思うと生返事のようなあの返答こそ私の生だったように思える。あまりにも言葉が足りなかったが。氏のインタビューを読むと、「拡大千円札」が発生した現場(氏の脳内)の空気はそう間違ってはいないようだ。そこに思いが行った、私の最初のリアクションは何なのか。
どんな人なのだろうか。間違っても千円札の人、でも、老人力の人、でもない。よく視て、よく考える人、だろうか、冗談が大好きな人、だろうか、それとも、すごくまともな人物、なのかもしれない。まだ分からないが、はっきり分かりたいとも、思わない。この卒論は、氏の痕跡を観察し巡る心の漂流だろうか。よくわからないが、ふとそんな気がする。
1 原平… (1960)
高校生のナマエ論
名前は風呂敷包みに過ぎない、と赤瀬川は言う。しかしナマエの奥の無名の塊が、何かを発している。
いったい「原平」とは何なのだろうか。「赤瀬川」も含め名前のインパクトが妙だ。畑で引っこ抜いたばかり、土のついた大根に赤いペンキをぶっかけたような。まだ本を読む習慣が無かったその頃の私は目をそらせ、もっとしゅっとした名前を手に取る。「沢木耕太郎」「トルーマン・カポーティ」「中島らも」。繰り返していくうち、そのスマートさにも飽きがくるようになる。もっと歯切れの悪い、得体が知れず喉に引っかかるような、そんな名前を求めだす。肉の筋のような。「田中小実昌」ちょっとつるっとしている。「つげ義春」もう少し。「しりあがり寿」「ホルヘ・ルイス・ボルヘス」「色川武大」。近づいているような気がするが、もっとこう、噛んでも噛んでも飲み下せないような、どうしようもない感じの名前は無いのだろうか、と何年か前にスマートな名前を求めうろついた辺りにもう一度行ってみる。そこで怪しい出合いがある。
「赤瀬川原平…」腐った大根をガリガリかじり、血と泥を吐きながら叫んで喉を潰すような、いや言いすぎた。だが何だか粗野なインパクトがある。
辺りを見回すと「篠原有司男」「風倉匠」「唐十郎」といった名前がある。「嵐山光三郎」は「赤…」に似ているようだが、よく見ると字面だけだった。「前衛」や「アングラ」が現れ何かが爆発していたようなその頃ならば空気に馴染んでいたのだろうか、現在の時代の空気からすると、消化してもしきれないような、茶色い石膏のような、固くてごつごつした響きである。流行っていたのだろうか。名前に棘が生えている。生え続けている。どこか土臭く、暖かい。黴ではない。多分。横尾忠則の「新宿泥棒日記」のポスターのような、土着性のようなものとギラギラ尖ったサイケといったような色彩が入り交じった空気。つまり六十年代の若者の空気だろうか。「瀧口修造」「深沢七郎」何だか敷居が高いような気がする。「花田清輝」は少し似ていないか?少しギラギラした感じ。けれどきれい過ぎる気もする。
少し離れたところ、何ともいえない装丁の「尾辻克彦」がある。こちらは何だか大人しい。
作家のナマエと作品のイメージ、後者が前者の印象を決めるとは限らない。何の名にしろナマエから直感するものは相当奥深いものだと思う。本屋の棚をぼんやりと眺め歩いていて、突然見知らぬナマエに変に魅かれ手に取ってしまう本があるだろう。ナマエを見ただけでその作家の全てを直覚してしまう、という事もあるかもしれない。その名前を付けた誰かの、思いも、好みも、その時代の空気も、諸々のものがナマエには付着しているものだろうし、そのナマエを持つ人自身が何となくそれに沿うという事もあるだろう。人とナマエの関係は切っても切れない。
勿論それが完全に裏切る事もある、たとえば「吉行淳之介」と言うと、私はとても筋肉質でいかつい人を想像していた。赤瀬川のナマエに関し、最初にどんな印象を持ったか、詳しくは思い出せない。だが、ナマエの割にはやけに攻撃的で硬質で、どこか恐いなあ、と感じて身を避けた。赤いし。
アカセガワ、発音するだけでいやこう一度書くだけで何か喉にひっかかるものを感じる。しかもその後に、ゲンペイ。卒論を書くに当って何度も反芻しているうち、あたまの中で発音するだけでも照れくさいような、身に余るような気がしてくる。これが「オツジ」となるともっとまろやかで、切れがいいのだが。嵐山光三郎が「暗号のような名」と形容している(「アカセガワという装置」「太陽」一九九九年九月号)ように、奇しい響きのある名である。子どもを催眠にかけてしまいそうな。氏の作品にはオブジェ的なものが多いが、名前もオブジェのようで。あまり考えすぎるとアカセガワという装置の罠、それも単純な部類のものに引っ掛かるのでもうやめるが、とりあえずこれからは、氏の名前を「ア…」と書いてみることにする。
こんなにも(不必要な程)気になってしまうア…という名字は本名、本物である。ノンフィクションで、フィクションでもある。こう目立つ、しかも挑発的な名字というのも大変なのじゃないか。ラジカルな表現活動をしていく上では逆に目立つので、ハイレッド・センターの「レッド」として、「櫻画報」の主筆の名として、映えたかもしれないが、胡散臭い名である。足かせになったこともあるだろう。それは「尾辻」が立ち現れる一因ともなったのかもしれないが、ここでは一旦置いておく。本名だし、慣れれば本人にとっては何の事も無いだろう。ア…の本名は赤瀬川克彦。名字は、九州の方にある赤瀬川という二級河川に由来するようで、氏も訪れている。まあしかし、青瀬川や白瀬川、瀬川などだったらまた生き方も何か違っていたのではないか。考え過ぎか。
で、大事なのは「ゲ…」である。ア…、二十三歳、一九六〇年。「時代がまだ青春だったころ」(「アンポとネオダダ」、「優柔不断術」ちくま文庫)の真っただ中。
前年の四月、高校生の頃から続いていた十二指腸潰瘍が悪化し過ぎ、名古屋へ帰り胃を切り取る。それまでの東京生活から抜け出し、「ボンヤリと」暮らす。八月に伊勢湾台風に襲われる。カナヅチであったア…は「八歳の爆撃のときと同じく、不思議に静かな気持ち」で死を覚悟する。この人は、根源的な静けさを持っている性質に思える。何千年も雨の中で立ち続ける巨大な樹のような。それはいいとして、伊勢湾台風に過去の絵も潰瘍の胃も何もかも破壊してもらい、さっぱりした、とのこと。くよくよ、というと響きが悪いが、何事にも粘り気を強くして接する氏、さぞかしさっぱりしたのだろう。
そしてその年の暮れ、四歳から中学卒業までを過ごした大分の先輩、吉村益信氏に新グループ結成の呼びかけを受け、年明けには上京。この集団がア…が初めて参加した集団「ネオ・ダダ」となる。ここまでのア…の生活の流れを考えると、何か突き抜けた時だったんじゃないだろうか。雲が分かれて陽がのぞき、雪が溶け出すように。一九六〇年四月ネオダダ第一回展。「絵画の破壊と工作」がテーマとして掲げられたこの展示での氏の出品は、初めてのオブジェ…。50年代半ば辺りか、人びとは絵画を破壊し始めた。いや本当はもっと前からいたのだろうが、それが(行為も含めて)「作品」として認識されるようになったのだろう。四角い画面の中で行われる絵画こそ美術、そのこだわりはだんだん溶けて行く。氏の文章によく登場するのは、キャンバスに机を描き、穴を開け、実際の花瓶を置いて花を生けた作品。人に聞いただけらしいが、「そんなことができるのか」とショックを受ける。
メキシコの絵画の絵の具に小石を混ぜた表現など、もともと生のモノを使った表現に魅かれていたらしいがこのエピソードから氏の中で何かが開けていったのだろう。それにしてもこの小話の中の作品、洒落ている。変な押し付けがましさが無い、というか冗談のようで楽しく、ア…の柔らかいタッチのエッセイや、遡ってマン・レイのオブジェのような味を感じる。実際に見てはいないが。
絵画の破壊は流行し、年を経るごとにエスカレートし、その温床であったアンデパンダン展の中止に至る。その過程で直接行為そのものを作品とする作品が美術館の外へと抜け出していくが、やがてそのスピードで六〇年代時代の熱と共にメインストリームから遠ざかって行く。私はその時代に生きていないから詳しいことは分からないが、まあ人も時代も年をとる、ということか。
前衛…?
赤瀬川のオブジェなのだが、どうもこの人は時代の真ただ中において他の人びとと相当違う匂いがする。もちろん今も顧みられる作品たちというのは当時においてもどれも相当に独特だろうし、優れてもいるのだろう。確かに河原温の鉛筆画などは突き抜けているし、暗黒舞踏やアングラ芝居、ハイレッド・センターや千円札もそうだ。今も影響を持ち続けている。時代の空気と渾然一体となった、しかし個々が強烈なオリジナリティを持っている、と言えよう。
その中において、赤瀬川の「ヴァギナのシーツ」という作品など、個人的といおうか、超個人的といおうか、特に魅きつけられる独特さを感じる。それはその時代に限らず赤瀬川の小説や行動全てから発される何かの一部分で、何かとは私がどうしても魅きつけられる大きな何かである。
ハイレッド・センターの活動や梱包作品、そして千円札作品たちは、その時点ですでに「芸術」の顔をしていない。芸術の文脈から発するものであり、「芸術だ」と裁判で連呼することになるが、芸術というコトバをとうに跳び出しているように思える、というか枠に押し込めば勿体ない気がする。現代美術、というコトバもあるが、何か物足りない。
「前衛」と呼びたい。前衛、とはアヴァンギャルド、の和訳らしいがいくらか違うニュアンスを帯びている。もっと泥臭い、ラジカルな空気。日本語は不思議だ。しかし時代の雰囲気にフィットする、まあそのシーンのキーワードだったようだが。彼らも美術を志向していたのだし、「前衛美術」と呼んでもいい気もするがそれも何だか。結局それらも「反芸術という芸術」として芸術に回収されているのだが、私はそこで回収されずはみ出してしまったものに興味がある。場にあった、狂気というか熱というか、「ロカビリー的喧噪」というか、言葉じゃ追い切れないもの。それは個人が生きている間に感じるかもしれないが、決して保存の利かない一瞬の放熱そのもの、のようなもの。
赤瀬川の話に戻ろう。
「ネオ・ダダ①」での氏の作品は、テレビのアンテナと、胃痛の苦しみを耐えるために彫った木彫りの人形を組み合わせたもの、そして真っ黒に塗った石膏のボードに割れたコップを規則正しく並べたもの。素朴な匂い…。
で7月、第二回展に先立ち「身のまわりが何でも作品になる、みたいな感じで、じゃあ名前も変えようか、ということに」なって行われた改名である。本名の「克彦」、も「上品で好きなんだけど、ちょっと虚弱な感じもした」、そして「何か大きく図太そうでいいじゃないかと思って」、原平(「全面自供!」晶文社より)。慣れた今でも何かギラギラするものを感じるこの名、「あかせがわ、げんぺい」の響き。銀行員から作家になったお兄さんは、赤瀬川隼(本名隼彦)。同じ名字なのに、慎ましやかで、びしっと固まった感じがする、少なくとも攻撃はされなさそうだ。この本人の言以外に「原平」について言及された文章を見つけてはいないが、作家名は、その人物にとっての最初の作品、という気がする。
とてつもなく広大で、世界の何処までも行っても続いていそうな広がりの真っ青な空、何もない景色。空っぽの昼。大きな、恐ろしいほど大きな太陽が空の高いところに昇っていて、ギラギラと輝いている。人間はというとこれも途方もなく広がる大地に、ちょこ、ちょこと姿が見える。他の鳥獣虫などと共に、生き生きと陽光を浴びる。しかし小さ過ぎて蟻のようなものにしか見えない。このような風景がよく私の夢には出てくるのだが、原な景色とはこのようなものじゃないかと思う。ちなみに夜のものもある。真夜中、これも途方も無く広い岩肌に誰かと座っていて、酒を飲んでいる。果実酒なのだが、(夢だからか)夢のように美味しく、瓶ごとがぶがぶと飲み干し、飲み干すと現地の人(東南アジア系)がおかわりを持って来てくれる。逆に飲まないと嫌な顔をされるようだ。月も出ておらず手元以外は真っ暗闇なのだが、人びとが何千、何万とその岩肌で楽しく過ごしているのが気配でわかる。暖かい。
原野、とか原初、といった単語を使わず「原」のイメージを書こうとしたらこうなったのだが、気づけばこれは最近見た夢の話である。まあ何と言おうか、アニミズム…?
長くなってしまったが、「漂流する意識」としての赤瀬川の作品にはどれもそんな「原」が見え隠れしている。暗くも明るくもない。暗いけど明るい。明るいけど暗い。「芸術」や「紙幣」といった物事の、始まりの地点としての、原。個人的妄想と宇宙の、原。人体と、意識の、原。クールで深く宇宙のような、原の景色。
「芸術原論」の岩波現代文庫版の解説で、椹木野衣が「赤瀬川さんの『原』」について述べている。芸術原論、というタイトルの不思議さに注目し、「原」とは芸術の原素であり、荒涼とした原野と化した芸術の世界であり、氏は「原」を「よく見る」ことをし続けている、という内容。頷けるのだが、このタイトル、原平の芸術論だから原論なんじゃないだろうか。原野は原平自身でもあるのではないか。あと、原という字が好きなのだろう。
好き、という言葉でなければ直感的に魅かれる、というか、筆を取ったら何気なく引いた線のような。原平、という名には氏の生々しいタッチを感じる。まあどこまで意識的であったかはわからないが、原、の字は赤瀬川の表現以前の表現として分かち難く結ばれている。初期の絵画や雑誌のカットにつく、「G.Akas」というサインは印象的だ。もしかしたらジャイアンツファンだからGにしたのかもしれない。いやまさか。
ちなみにこの本はいつになく真面目なトーンが保たれている。ひょいっと鋭い事を言う赤瀬川だが、一段と鋭い。
宗教と芸術だけのことでなく、黎明は一瞬のものである。この世のほとんどは、黎明から黎明までの間を埋める退屈な時間だ。その退屈さを得意とするものもいるし、不得手とするものもいる。(一七四頁)
原な視線だ。芸術という枠に捕われていては、追いつかない。冗談が先に立つ赤瀬川の文章だが、一方でこんな視線が常にある。さみしそうだ、という人もいるが私はそうは思わない。ありのままを、正確なことばで述べているだけで。きっとこの件は、これ以上続くと宇宙のハナシに跳んでいくだろう。
表現者にとっては改めて言うまでもないこと、わかりきったことなのかもしれない。けれど奥の奥、基調音としてこの視線はある。だから、こんなこと言ってもつまらないから面白がろう…と、色々といじり回す。
原平の平、は何だろうか。語呂だろうか。きっと普段何となく考えていたのだろうが、酔っ払って勢いで決めたのではないのだろうか。直感で。この人は直感の人である。繊細な「克彦」のイメージを覆い隠し、図太くて強そうで「前衛」っぽい。それにしても胡散臭い。泥というか土の匂いもする。さらさらとした。
ダダ
さて、前衛の原平は何をするのだろうか。赤瀬川はそんな「前衛」と出合った時のことをこう言っている。
フィクションとノンフィクションとを一つにまとめる爆薬を手にしたみたいに、平面に閉じられた絵画空間が、立体的にねじれてくる予感をもった。
はじめは恐る恐るだった「読売アンデパンダン展」での画面の出っ張り競争は、急速に進み(中略)それは絵画の画面というものが支える限界を超えてしまい、ついにその出っ張りは画面から落ちる。そのようにして絵画を離れて床に置かれた物品類を見る。
そうやって私たちは「オブジェ」というものを知ったのだった。
それまでにも一九三〇年代の文献によって、デュシャンやマン・レイなどダダの人びとのオブジェというものは知っていた。しかしそれは古い印刷物の向うの歴史的な事柄として記憶にあるだけだった。それとはまるで違う自分たちの体内にふくらむルートをたどって、私たちは素手でオブジェというものを知った。それが実感である。(「芸術原論」一四八頁)
破壊の鮮烈さ。ダダを実感で知ること。そういえば私も以前展示をした時にふと思いついて、妙な味わいがある卵焼き用のフライパンを壁にかけたり、新聞紙で包んだままの絵を掛けたりしてみたが、悪くなかった。それもダダだろうか。だが、赤瀬川のそれは規模が違う。時代の熱と共に、何十、何百もの芸術青年たちが破壊を競い合うのだ。醒める暇もなく。ちょっと怖いが、ギラギラと光彩を放つ。
さて、そんな中。「ある種の愚直さ」(今泉省彦「赤瀬川原平」「機関」14号)を抱えた赤瀬川は、それに馴染むのに少々時間がかかったのだろう。仲間たちは既に破壊していたのに赤瀬川さんは壁から離れなかった、という。最初のオブジェにしろ、コラージュにしろ、仲間たちの喧噪からは一歩離れたところで、ゆっくりとしかし丁寧に「破壊」を見つめていた。ダダイストのコラージュやマン・レイの絵画など、それと似た気分があったのじゃないだろうか。
そんな丁寧なダダ。徹底的な破壊へと足取りをすすめる。その頃の赤瀬川の作品として、「ヴァギナのシーツ」という巨大な廃品のオブジェや、「あいまいな海について」と題されたコラージュ作品。他いろいろとあるが、「千円札」というのがよく論じられている。その状況を、出来事すべてを、可能な限り追ってみて、よく見るだけ、というのが一番スマートかと思うのだが、だめだろうか、見るだけでは。赤瀬川が、よく見るために模写をしたように、よく見るためには書かなければいけないのだろうか。まあどっちにしても私はこれから書くのだが。
じっさいに自分で千円札を畳一枚の大きさに拡大模写してみたり、街の印刷所で千円札模型を大量に刷ってもらったりすれば少しは気分が変わるのだろうが、いや本当はそうしたいのだがどうも食指が動かない。
常に本人より数歩前を歩いている赤瀬川の直感は、一体何なのだろう。それは無名で、感情をもたない霊体のような。
2 千円札問題① (一九六一〜)
「ミキサー計画」を辿る
手元に一冊の「美術手帖」がある。二〇〇四年八月号、特集は「芸術家・赤瀬川原平」、下に小さく「ネオダダ、ハイレッド・センター、(略)から老人力まで」とある。赤瀬川さんが「芸術家」にされてしまった。たしかに「絵描き」ではあるが、はたして芸術家なのか。あいまいな、というかどうも胡散臭い。ちょっと私は、この語に対してためらいがある。吃りそうになる。
赤瀬川が間違いなく芸術家であった時期は、まあ六十年代頃だろうか。芸術につきものの表現を巡る葛藤なり、批評なり評論なりそれっぽい言葉たちが赤瀬川の周りにうずまいている。作品もあって、しかも裁判まで、いかにも芸術家のようだが、赤瀬川たちは芸術を志向していたのだが、実際のところ、彼らの「反芸術」は「芸術」なのか、何なのか。「ダダ」とか言うが、ダダこそどこまで芸術なのか。芸術と言っていいのか、言われているけれど、微妙じゃないか。本人たちも「芸術じゃない、芸術じゃない」と言いながら、明らかに芸術というコトバとは程遠い仕事をし続ける。日常行為に極めて似ている、冗談のような、しかしとことん真面目で。すると犯罪のような…。そうでもなくて。では、もしかすると、これは…芸術…?
先日、横浜トリエンナーレに行ったのだった。横浜の街は久しぶりで、広々としていてやたらと綺麗で、気持ちいいのだがどこか落ち着かない。海もあって、外国の街のよう。会場は三つあり、そのうちの一つ、赤レンガ倉庫。「もの派」や暗黒舞踏に混じって「シェルター・プラン」の映像があった。「ネオダダ」が消滅ししばらくした後に赤瀬川が高松次郎、中西夏生と共に結成したハイレッド・センター(以後HRC)というグループ。この辺りのことは赤瀬川が一冊の本を書いている。「ハイレッド・センターを知っていますか?」「ちょっとハイレッド・センターのことを話しましょう。最近よくハイレッド・センターの噂を耳にするのです。」という書き出しから始まる「東京ミキサー計画」(ちくま文庫)という本で、今も人気があるようだ。赤瀬川氏が、ハイレッド・センター氏という匿名の運動体の「秘密芸術」を紹介している。
シェルター・プランは、一九六三年一月二六、二七日。「初版本の帝国ホテル」の一室で訪問者の計測を行うというイヴェントである。モノクロで、音はない。HRCの三人も、言葉を交わさず黙々と人びとの寸法を測っている。身長、体重、肺活量、口の中の容積、ベッドに寝そべり、足のサイズ、顔の長さ、頭の幅、肩幅、風呂に入り、溢れた水で人体の体積(任意)、最後に全身の撮影。前後左右、上下から。カルテをもらう。お土産に、箱形に組み合わせた全身の写真の「シェルター」、HRCのシンボルマーク「!」のラベルがついたカンヅメを買えと商談がなされる。黙々と、淡々と、行為は進められる、淀みなく、続いていく…。招待状を送られた人(横尾忠則やオノヨーコ、ナムジュンパイクなどもいる)だけが複雑でアヤシゲな案内ののち場に辿り着く。何に見えるかというと、秘密めいた儀式のような、犯罪の景色のような。しかし行われていることはどこまでもフツウのことである。意図も意味も図式もない。立つ、座る、寝そべる、裸になる…。誰もが毎日繰り返す日常の行為をただひたすら繰り返させ、計測する。顕微鏡の中のような。映像はサイレントだったこともあるが、静かで奇しく、手慣れた手つきで気負ったところもなく「犯罪にしか見えない冗談…」と見ていて感じる。しかし、とても楽しい冗談だ。
その「やり方」そしてHRCのあり方そのもの、どうも「表現」らしい。見えにくいけれど、どうもそうらしい。私も計測したかった、されたかった、どちらかというとしたかった、だがそれはかなわぬ。言葉が見つからないまま、彼らの「行為」は取り壊された帝国ホテル340号室の壁、「東京ミキサー計画」を読んだ人びとの心の内壁に黙したまま、へばり着きっぱなしである。今でもそしてこの先も人は、立ったり、座ったり、寝そべったり、裸になったりすることを繰返し続ける。不穏な、モノクロームの日常、フィクションの裂け目。そんなものが、見えるような、見えたと思ったら霞んでいくような…。
今でこそそんな「手法」は「パフォーマンス・アート」だとか「ハプニング」だとかいう術語に片付けられてしまうが、あまりにも臨場感が無い語だ。HRCの蠢いた時期はまだそんな言葉は出るか出ないかといったところで、彼らの「直接行動」は得体の知れない「作品」だった。今も得体が知れているかは怪しい。まあいつでも、知る人は知るし、知らない人は知らないだろう。私はどちらかわからない。ただ、本当の手触りはきっと、何とも言えない「場」としか言いようのないものだろう。実際に触れたら本を読んで知るよりもわからなくなるような気がする。映像は七分ほどで、あまりに淡々としているのでそれよりも長かったらきっと飽きる。しかし、その「場」はイリュージョンであり、衝撃的であるのだろう。それも「おわっ」と一瞬に驚くようなインパクトでなく、最初は何気なくぬるりと始まったことが、時間の経つうちにじわじわと膨らんでいくような異質感。あっさりした白昼夢、というか。一見、とても冷えているようだ。時代の熱気とは反対に。
映像のインパクトのせいか代表作のように書いてしまったが、「シェルター・プラン」は数ある「ミキサー計画」の中のひとつに過ぎず、他には新橋内科画廊での数回の展示やイヴェント、ビルの屋上から服や靴、鞄などを投げ落とす「ドロッピング・イヴェント」、画廊を閉鎖して世界を逆に梱包してしまうという「クロージング・イヴェント(大パノラマ展)」、そしてHRCの代表作?として写真がよく使われる銀座の路上超掃除、「都市清掃運動」などがある。どれも不思議なユーモアを持った、冗談のような、犯罪のような、それともやはり表現のような、得体の知れない雰囲気に包まれている。妙な気品がある。もちろんその裏では、貧乏だったり退屈だったり適当だったり、そんな面も色々あるのだろうが。気負いがない感じ、押し付けがましくない。素朴で洗練されていて、透明感がある。「作品」を手放した解放感だろうか。今も続く赤瀬川の路上観察学会の活動にも、通じるものがないこともない。気がする。氏の実感を通した一面しか私は知れないが、楽しかったのだろうなあ。ミキサー計画には様々な解釈がなされ、赤瀬川や他のメンバーも解説、というか紹介をしており一応「芸術」に回収されているようだが、回収し切れない気持ちよさが沢山滲み出している、行間から。
写真とともに、「ドロッピング・イヴェント」をつづる赤瀬川の文章は詩的で、気持ちよさそうだ。「霧のロンドンのマネをしている」霞がかった東京の空。シーツやブラジャー、服、鞄、週刊誌、といった落ちる物品たちを絵具に、落とされるお茶の水、池の坊会館の地表をキャンバスになぞらえる。ただ何となく、屋上から物を落とす、というだけの「イヴェント」。青空の下、風に舞う日常の品々、地表に転がった物たちの写真は、さながら犯行現場のようだと赤瀬側は書いている。ドロッピングの瞬間から八年後の新聞に載った日本赤軍の犯行現場の写真にそっくり似たものを感じた、とある。私はかわいい時代に生きているのかもしれない。生なものが全てメディアによって解けないほど堅く梱包されてお茶の間に届けられる時代…。まあ私の話はドロッピングしておくとして、犯行現場のたとえはこう続く。
それぞれの物が、それまであれこれと用事を背負っていたのかもしれませんが、その用事がすべて地表に激突して潰れてしまっています。血が流れているのこそ見えないけれど、その物のまわりには潰れてしまった用事がにじみ出て、周囲に流れ出しているのです。その見えない血のように流れ出る潰れた用事というものが、まだこの先用事をもって隅に置かれている紙袋との対応を繰返しながら、どんどん鮮烈になってくるのです。(二四四頁)
情景が詩的だから赤瀬川の文章もやむを得ず詩的になったのかもしれない。詩的だが、鮮烈な描写である。確かに意識的かどうかはわからないが、HRCの「直接行動」は当時のいわゆる「芸術」の枠組みの中では多少の犯罪である。過ぎた遊び。「生活用品」ひいては「生活」に対する犯罪とも言えるだろうか。社会で決められた役割に反する。すると犯行現場。ちなみに、それとは別に「思想的変質者」として警察にマークされてもいたらしい。これだけのことで、何を疑われなくちゃいけないのだろうか…。こういう話をし出すと「社会」とか何やら色々関わってきてしまうので深入りはしないが、子どもは毎日似たようなことをやっているじゃないか。
つい引用してしまったせいで、私がこの写真を見てどう感じたか書き忘れていた。犯行現場、はたしてそうか。青空の下、屋上に並び、(多分)大したことは何も考えずに雑誌や新聞、靴やシーツをぶん投げようとしている瞬間。HRCの面々の顔は、すっきりと晴れやかである。地に転がる物品の表情は、何事もなかったかのようにからりとしていて、私は何故だか楽しくなる。いらない物もいる物も適当に、放り投げてしまった気分、本もパソコンも布団も服も絵も書類も何もかも、捨て置いて立ち去るような…。まあ眺めた先、イヴェントのあと別の用事で使う予定の物がはみ出て壊れていたりしたら、ちょっと微妙な気分になるかもしれないが…。でも多分、清々するだろう。HRCの人びとは毎回喫茶店で何時間もプランを話し合ったらしいが、このイヴェントはどうなのか。何だか殆ど何も考えていないように思える。「落とそうか」「ああ、落とそう」などと言って。理屈はいらない。そこには「芸術」や「表現」以上の晴れやかさがあったのではないだろうか。いつも心に、放落物を…。
さて、この項の表題は「千円札問題」なのだが何故千円札なのか、何が問題なのか。千円札は赤瀬川の丁度この頃、HRCを始める少し前の作品のテーマの一つで、それを巡る一連の出来事が「千円札事件」と呼ばれる。何が問題かというと、話が大き過ぎて、私がどこから手をつければいいのか分からないのだ。「のだ」などと、そう偉そうに言うことではないのだが。藤森照信氏が「目と言葉が人並みに優れていて、手がついてこなかった」と評するとおり、反芸術の時流に引っ付きずるずると流れ、ある時流れを飛び出し自分と深く結びついていた「芸術」、そして「絵画」を破壊するまでに至る。マジメな人である。ゆっくりとねばねばと、真摯なものの見方をする。そして常に物事の原な原理に目がいってしまう人である。でもそのテーマは、最初は何となく掴んだものなのだ。
赤瀬川がよく使う比喩で、回転体のそれがある。比喩が比喩をよび、コーヒーカップに廻る渦が東京の山手線になったり、人間関係だったり、はては宇宙まで飛躍してしまう。その影響か、私はよくものを考える時、廻るレコード盤と、その上を行ったり来たりする自分ないしは自意識の図を想像する。外側に行けば行くほど流れは激しく、真ん中に行くとゆっくりしてきて、焦点は静止点である。音もなく、時間もない。正円ではなく、焦点が二つの楕円かもしれない。
真ん中は止まっている。そこに赤瀬川は否応無く入り込んでしまう、自分の体をすり減らしながら…。この円はきっと「芸術」である。真ん中には国家だろうか、世の中だろうか、何だろう。とにかく色々なものが蠢いている。千円札を観察していたと思ったら、気づけば「芸術」をはらむこの世の中をとことん観察し、さらに、「ことば」でそれらを説明しなければならなくなった。「芸術じゃない、芸術じゃない」と言えなくなった。でも焦点は、「芸術」の出口だったのかもしれない。そこで静止し続けているのかもしれない。5年以上にわたり赤瀬川を傷つけ苛み、「千円札事件被告」の取れない肩書きを氏の背中にくっつけた「千円札事件」の私にとっての印象である。
HRCのハナシから逸れてしまった。いや、逸らしたのだろうか。赤瀬川の文章の面白みと言えば脱線である。ずるずると、脱線に脱線が重なり逆にそっちが重心になったりする、だがふわりと、元のレールに何となく着地し戻ってくる。しかし、この「東京ミキサー計画〜ハイレッド・センター直接行動の記録」という本では脱線は少ない。著者は「わたし」と名乗り文章は、ですます調、「わたし」とは赤瀬川原平です、と言ってはいるのだが、どうも普段と毛色が異なる。勿論、常日頃描いている赤瀬川と描かれている赤瀬川も異なる地点にいるのだが、その赤瀬川より、また遠い。妙な透明感と浮遊感とでも言おうか、あっさりとすっきりとしている。多分、「わたし」というのは赤瀬川原平ではなくどこかの匿名の運動体ハイレッド・センター氏のひとつの顔、レッド氏なのだろう。
ふりかえられたのは、活動から二十年後、一九八四年、「作家」尾辻克彦が勇名をあげて後のことである。フィクションのような、冗談のような本気。オリジナリティなのか何なのかすら分からない、回収し切れないもの。ひとつの突き抜けたモーメント。HRCの名前の奥にある、無名で透明なエネルギーは、今もどこかを漂っているはず…。
とりあえずここで、運動体の一部であったハイ氏とセンター氏の赤瀬川原平についての言葉を引用しておく。
―HRCのミキサー計画とは「白紙還元」。そして赤瀬川さん個人は「世間の見方に関しても、そして表現に関しても、すぐれた『方法』の持主」(高松次郎「不在への問い」)
―「沼のイメージは、私には赤瀬川の肉体のイメージに似ている、いつも無防備な赤瀬川」(中西夏生「赤瀬川原平」「機関」14号)ここで言われている沼とは、「芸術」のような宇宙のようなものである。
千円札の季節を辿る
芸術、という言葉がある、ただの言葉なのだが、言葉以上の膨らみをたくさんたくさん帯びてしまう。オブジェのように。一九六六年八月十日、千円札裁判第一回公判。「模型千円札」やその千円札で梱包されたハンガーや扇風機、洗濯バサミを体いっぱいに付けた青年、等身大の背面ヌード写真。「両目から白昼夢があふれるようだった」と陳述原稿を書き上げ疲労困憊していた赤瀬川さんが見た光景である。「芸術じゃない、芸術じゃない」とあれだけ言っていたのに、「あれも芸術、これも芸術!」と主張しなくてはいけなくなってしまった。大変だ。
「千円札」の時節はHRCの活動時期と平行しており、作品はHRCのイヴェントにもちょくちょく顔を出すが、直接的な関わりはないようだ。千円札は氏の個人的な、きわめて「自虐的」で「絶壁的」な作品だ。絶望、ではなくて、絶壁。畳一枚サイズの、千円札の拡大模写、それとクラフト紙に一色刷りで印刷された「私製の千円札」、もしくは「模型千円札」、そして、その紙を使った梱包作品がある。で、事件になってしまった。「千円札裁判被告」の肩書は、今も「著者紹介」の欄にくっついている。
とりあえず、私は財布から取り出した千円札を眺めてみる、見つめてみる。何だか判然としないので、虫眼鏡を使う、すると、かっこいい。オフホワイトの背景に、深緑の描線たち、明るい緑、青緑、すみれ色、黄土色、鮮やか。透かしの楕円を挟んで、右側に野口英世、変な髪型、瞳が省略されていて、どこを見ているのか分からない。左側には「日本銀行券 千円…」とあり、その背景の模様がキレイ。ついでに匂いを嗅いでみる。何百、何千の手と機械を巡ってきたのだろうが、臭くも塩辛くもない。見ていけばきりがないと、飽きっぽい私はここで見るのを中断してしまうのだが、お札ってかっこいいんですね。「KQ663917C」一枚一枚、違うナンバーが入る、誰が描いたのだろうか、サインの代わりに、国立印刷局製造、とある。上質の、滑らかな手触り。ひとつの版画作品、とでも言いたい気分。
「私製の千円札」やその後作られた「零円札」には全て「RA565658R」と入っている。このお手本は、何度観察され、今はどうしているのだろうか。見るという行為、ただひたすら舐めるように、這うように、視ること、そこには企みも、詩情も、シュルレアリスムも、ダダも、「芸術」も、何もない。あるのは赤瀬川と千円札、赤瀬川の眼球とレンズ、千円札の肉体、それをひたすら模写する手と筆とパネル。画家とモデル、のようでもある。そんな夜がどれだけ続いたのだろう。私も千円札を観察しつつ、「これは、頑張れば、いける、かも…」と思ったが、並大抵の仕事ではない。途方もない。技術もない。仕事、と言ってしまったが、この行為は仕事、に思えてしまう。無味乾燥とした匂いがするからだろうか、一枚の非常に精巧な版画作品を、その通りに拡大模写していく日々。けれど、ずるずると面白かったのかもしれない。どうも赤瀬川は、模写が好きである。一九六三年、二六歳の頃。三月の読売アンデパンダンを目指して作られた作品である。七〇年代のはじめ、三十を過ぎて氏は路上の超芸術、トマソンを発見する。そこには「目が拡大していくよろこび」があったらしいが、それは千円札にはあったのだろうか。遡れば、廃物と出合った時からあったのかもしれない。それにしても、何故、私は今まで千円札を見つめようとしなかったのだろうか。ずっと、頭の中にはあったのだが、つい最近やっとだ。怠情といえばそうかもしれないが、それ以上に何か、避けるものがあった気がする。大体いつも、何処にでもあるものなのに。主に財布の中とか。
ところで、最近「氾濫するイメージ」と題した、六十〜七〇年代の“イメージ”、横尾忠則、宇野亜喜良、中村宏、つげ義晴、そして赤瀬川原平の印刷物を中心とした展示が行われており、ここぞと思いうらわ美術館へ向かった。展示の初日、土曜日の午後。埼京線で赤羽、赤羽から高崎線で浦和。赤瀬川、いや尾辻克彦の芥川賞受賞作、「父が消えた」で「私」は、教え子と二人で三鷹から高尾行きの中央線に乗っており、馬糞紙のハナシやお父さんのハナシなどしながら、「私」の父の死を中心とした家族の記憶を回想している。逆方向の電車に乗ると、旅みたいな気分だねえ、などと思いながら八王子の墓所へ行く。赤瀬川(尾辻と言うべきか)の“小説”はいつも音楽のようで、心地よい。この小説も、その空気がたまらなく私を魅きつける。普段と違う電車に乗る、素朴な喜び…。だらだらと続く他愛のない会話…。で、私はその中央線のようにほのぼのとしながら行きたいと期待していたのだが、意外ととても混んでいて、立っているだけで疲れる。本を読む余裕もなく、窓の外の近景、ふと意味もなく、独りで歩いている人たちの数を数え続けていた。捜し始めると面白いもので、コンビニやクリーニング屋さん、何かの教室など、その中にいる人や線路沿いの道路を歩く高校生や自転車など、見ていると楽しい。団地というか、マンションの廊下にはほとんど人は見えず、見えないと廃墟か巨大なジオラマのように思え、少し淋しいものがある。一人、二人、三人…。二十人ほど数えた辺りから、ひとり、ひとり、ふたり、ひとり…と数えるようになり、さらに二十人ほど数えた辺りで止めた。私が押し黙っているので、同行者は少し不審がっていた。ようやく浦和に着く。浦和レッズの街。とても赤い。
ちょうどいいタイミングで企画されたこの展示、前衛の時代が終わった後の七〇年代の美術界では、コンセプチュアルアートやもの派が台頭する一方、雑誌、マンガ、広告などで多彩な印刷イメージが「氾濫」していた。それらを、現代の日本美術におけるもう一つの大きな要素として捉えてみましょう、という主旨である。赤瀬川はトップバッター。予想以上に広いスペースで、櫻画報や、それに類したマンガ風のパロディ作品の原稿、芝居のポスター等、そして、模型千円札作品が少々、ぎっしりと配されていた。一番楽しみにしていた拡大模写はなかった。しょうがない。まずは千円札作品。そもそもの発端となった、緑一色で刷られた、個展の案内状。表は千円、裏は表のコラージュ的な画面に、会場の地図と、画家のメッセージ。展示のタイトルは「あいまいな海」。菊原茂久馬が「赤瀬川さんの資質がこのあたりで姿を現したって感じ」(「機関」十四号、海鳥社)と言っているが、多分そうなのだろう。ひとつのあいまいな形が、フレームを持った。あいまいな海、とは人体のことらしい。洒落ている。しかし、粗末な印刷で、ショウケースの中に入っていなければ落ちていても気づかなさそうだ。いやそんなことはないか、眼を奪われるだろう。お札だもの。赤瀬川はこれを現金封筒に入れて送ったらしい。タチの悪いいたずらになりかねないが、そんなものが送られてきたら何だか楽しい。「あいまいな海」はコラージュ作品を中心とした個展である。生で作品を見たことはないのだが、鮮烈な色彩で味のある、かつ素朴なコラージュたちである。海っぽい背景に人体が漂ったりしている。マックス・エルンストのコラージュ小説「百頭女」の邦訳(河出文庫)に、瀧口修造、澁澤龍彦などそうそうたる人びとと共に文章を寄せているが、コラージュはすごくはまったらしい。「無限小の迷宮」とその過程を言っている。赤瀬川はやはり、その辺りのものが好きらしい。印象派もそうだが、ダダ、初期のシュルレアリスム、何だか素朴な匂いのするもの。どうだろう。まあ粗末な千円札に戻ろう。
「模型千円札」が刷られたのは、拡大模写を始めたあとである。表現家としての自分に対する自虐的な気持ちと、漠然とした面白さを感じて始めた千円札の写生だが、進めるにつれお札を巡る理論が発展していったのか。できるだけ現実に忠実で、「作品」らしくない外観を目指していた、ということもある。構造を含めたこの世界の一面を、模写しようとしていた。できるだけ、シンプルなやり方で。このあたりの思考の道筋は、赤瀬川は「一種の純粋思考」(「全面自供!」晶文社、一三二頁)と言っているが、別に贋札を作りたかったわけではないのである。いわば、美術の世界での犯罪を企み行動していた赤瀬川さんだが、気がつくと実世界での犯罪に抵触しようとしていた、いや、してしまった。「紙幣の不敬罪」とでも言うべき微妙な法に。
千円札作品たちは、証拠品としてみな押収され、やがて解放された。何らかの経緯を経て、ここ最近は滋賀美術館にある。そして、先日うらわ美術館の企画のためまた動かされ、私の目の前、ガラスケースの中に収まっていた。ハンガーとボトルの、模型千円札紙による梱包、「押収品」の札がついたまま。模型千円札紙とは、千円が沢山印刷されたクラフト紙である。刷り間違いで、断裁していなかったものをついでにもらったらしい。しかしその適当さが、逆に生々しい「本物」の千円札の刷り損ねを見るようでもある。生々しい、というのはより犯罪っぽい、ということだろうか。荷札のように括り付けられた札には、「検察庁」と印刷され「赤瀬川克彦」とマジックで書かれている。原平はここでは克彦だったようだ。偽名でなく、本名の。いや偽名というか、芸名というか、フィクションとでもいうか…難しいところだ。ボトルのそばには「私製の千円札」が立っている、ぺらぺらと。
ショウケースに入った梱包ハンガーを見てみる。古いからかやたらと味がある。しゃれたディスプレイになりそうだ。ただ、見た目にはそれ以上のものはない。空虚な感じ。しかし長らく見入っていた。ほとんど、年代物のゴミ…にしか見えない、ということもない。むしろ芸術のような顔をしている。本に見るダダのオブジェやコラージュのように、素朴な味をそなえている。中味が緑色の布でふかふかしている、やや偉そうなガラスケース、右下には小さく「滋賀美術館蔵」と貼ってある。
何なのだろかこれは、と私はしばらく立っていた。目は物品を見つめながらも、頭は何か考え続けていたようだ。ただの、ハンガーの模型千円札紙による梱包、その年代物。およそ四十五年物。ハンガーとクラフト紙と紐と若いアの手と、それ以外に発される空気があるとすれば、それは「時代」とやや偉そうなケースによるものだけなのだろうか。それとも私の目は体は、赤瀬川の「やり方」を感じ取っていたのだろうか。実際のところそれはないだろう。だが、透明感と、苦みの入り混じったような投げやり感、その快楽なのか、からりとした表情を私は感じた。その感じは赤瀬川にまつわる興味でいっぱいの私の頭の産物なのだろうか。判然としない。
「まあ、これはもしかして、芸術…?」と眺め入る人もいるだろうし、犯罪めいた札のついたよくわからないものに妖しく魅かれる人もあるだろうし、もしくは、「ああこれね、赤瀬川さんの梱包ね。ふんふん」と訳知り顔につるりと眺めていく人もいるだろう。まあ大抵は、解説を読みつつ作品をちらりと眺め次に行くだけだ。それがどうとか言うわけじゃない。むしろ当然だ。しかし、頭だけじゃ感じられない何かが梱包ハンガーにはあったように思える。物体化された「やり方」でしかないとしても、そもそもハンガーという物件自体が作家を引きつけたのだ。面白いじゃないか、梱包とハンガーと美術館の組み合わせ、と。作品はいつも、直接見ないとわからないものだ。ケース越しだけれど。ハンガーひとつ、これは赤瀬川原平の芸術の証拠品であり、犯罪の証拠品でもある。
マジメに芸術の道を歩いていた赤瀬川にとって、「千円札」と「梱包」は破壊的な作品だった。これ以降、ハイレッド・センターの活動を除き、純文学のように、純美術とでも言おうか、ファインアートとでも言おうか、いわゆる美術家としての行動はほとんどやっていない。「原平」となって以降の赤瀬川の作品に共通するのは、透明感。潔癖性的な、「肉体」を否定するようなニュアンス。時代の潮流であった「反芸術」を追求し続けた結果、遂には作家の筆跡、手わざ、個性、そして、作品そのもの、表現自体を否定するに至った。まあそもそもジャンク収集を始める辺りで廃物の美しさに魅きつけられ、「絵を描かなくてもいいじゃないか」と思った辺りでその萌芽はある。それは後に始まるトマソンの活動にもつながっていく。
山の中から物を取り出す、そのことが瞬間の作品として浮び上がってくる。作品の価値というものが、安定した物質形態から行為そのものへと移行する予感である。」(「芸術原論」岩波現代文庫、一五一頁)
絵画を抜け出しオブジェとなり、千円札はもう深化したオブジェというかレディメイドというかパロディ的でもありもうわけがわからず、トマソンはもう強度の芸術、芸術ではなく超芸術である。作り手は何処にもいない、「都市の無意識」である。観察から始まる「物」への興味が、つくる喜びに勝っていった。そこに文学性、というのかねちねちと粘り強い思考が加わる。ただ、「絵描きというのは、考える前になにかをやってしまうものであり、あるいはやってしまってから考えるものであり、赤瀬川はとりわけ顕著にそういうタイプの人間」(「赤瀬川原平」今泉省彦、「機関」14号)と今泉氏が言うように、何だか分からないけれど、面白いので何となく…やってみた、のが赤瀬川の作品である。オブジェが語りかけてきたのかもしれない、とりあえず、やってみたのだ。何を掴んだか、わからないままに。
年譜を見ると、一九六一年、二四歳「この前後数年間は、つぎの作品のことばかり考えて、眠られぬ夜を過ごす。」「暗い顔」をした赤瀬川原平、うつむきがちに歩いていたのだろう。つぎの作品…膨らみ始めた「表現」そのものに対する倦怠感…すごく好きだから、すごく破壊したい、「芸術」への気持…否定したい、泥臭さ…。ふと、気になるものがある、目の端にいつもちらちらと…見てみると、聖徳太子…レンズの中の、聖徳太子…。
梱包
順序的には千円が梱包よりも先なのだが、梱包の方がライトなので、そちらを先にしてしまう。
絵を描く人は誰でもそうだろうが、私もキャンバスに絵具を塗りたくるのが好きで、刷毛でぺたーっと細かいことを気にせずに(画面をつくっていく)のは線で描くのとは違うよろこびがある。「画筆に絵の具をたっぷり含ませ、何かに痕跡をつけるというのは、たとえ一台の自転車であっても、そくそくするほどの快感だ。僕は今でも、一枚のドアをただ一面一色に塗るだけで、まる一日過ごせる。」(デヴィット・ホックニー「ホックニーが語るホックニー」パルコ出版、十頁)と、ホックニーも言っている。ただ、絵を描く、もしくは画面を創る、ということは、細かい陰影だったり線だったり色の組み合わせだったり質感だったりあとは気持ちだったり、総じて言えば、バランス感覚、個人的な調和が求められることで、それが面白くもあるがすごく面倒でもある。けれど、人に見られることがそこに大きく関わってくるのであって、そうやって表現は形作られるわけで。新しい技法も結局のところ違いは無い。ヴァリエーションというやつか。もしくは、赤瀬川が言うように、ある意味「営業活動」でもある。私の場合は技法の勉強などしたこともなく更にせっかちな性分なので、わからないなりにこせこせと試みを様々したあげく、刷毛で全体を大ぶりに塗り上げて、あとは偶然の味に全てを任せる。できるなら自在なわざで、「味」がびっくりしてしまうような絵を描けたらと感じる。
私の絵の話はどうでもよかった。絵を描く話なら赤瀬川さんもよく書いている。「絵を描きたい気持というのがコロコロと丸まって、小さな犬コロみたいになって座っている…」(「芸術原論」六七頁)と始まる、素敵な文章である。赤瀬川は今もイラストレーションをちょこちょこ描いている。それはいいとして、一色を刷毛で塗り上げたキャンバスは、絵具によるキャンバスの梱包ではないかと思う。ただし、だいぶ不完全な。裏側も側面もみんな塗って、さらに筆跡もなくしてフラットにして、さらに塗料もとても不透明なものならより完全に近づく。シンプルで、作家の個性も何も、余計なものが像を霞めていく。ただ、作家が自ら時間をかけて神経を使ってその物に向かった、という事実は残ってしまう。
梱包は、ただ包むだけ。キャンバスを、後には扇風機やボトル、ハンガーなどを。ふとそこにあった、クラフト紙と麻紐で。それをアは、千円札の拡大模写を出す目標としてあった読売アンデパンダンの会場で(そそくさと)やってみた。すると、作品のように見えてしまう。キャンバスがオブジェと化し、オブジェはいっそう不思議になる、美術のように。最小限の手わざ。
何故、梱包が作品のように見えてしまうのか。私はアの梱包ハンガーを見た時、本で見たダダイストたちのオブジェを思い浮かべた。オブジェというか、アッサンブラージュ。日用品や歯車やそこらの人形、印刷物などを組み合わせたミニチュアの工場のような、ガラクタの寄せ集めのような。いや、もっとシンプルなもの、結局はデュシャンの「泉」や自転車の車輪に行き着く。何故、それらが美術に、つまりは一つの表現に見えるのか。本に載っているからか。その「場」が面白いからか。鋭く洗練されたコンセプトが感じられるからか。それだけじゃない。ああつまり、単純に、便器ってヴィジュアルが美しいでしょう。白くて、すっきりとしていて、しかも人の手を経ず工場でするするするする限りなくフラットに生産される。たとえば、私は、トイレットペーパーって美しいと感じる。新品のTP (トイレットペーパー)のロールがつやつやと白く輝く洋式便所のタンクの上にちょこん、と乗っている姿。壁についた銀色のホルダーにぴったりと収まっている姿。もしくは、籠に入り、ピラミッド状に重ねてストックされている姿。窓から隣のビルの壁が見えて、薄暗い光が射し込んでいたりする。また、何かの作業現場、打ちっぱなしの床に道具や塗料が散らばり、そこにちょこん、白く佇んでいる。何とも言えない美しさを私は感じてしまう。からりとしていて。トイレなのに。それを絵に描いたり、写真にとったりもする。珍しいTPを見つけるとつい手にとり、コレクションしたりもしている。でも、それがそこにある景色、それだけである種ケイレン的に私は美を感じてしまうのだ。だから、美術館のガラスケースの中にそっと置かれていたりしても大いに感じるものがあるだろう。たとえそれが、何らかの手違いか、イタズラによって置かれたものだとしても。そもそもそんなものが、オブジェじゃないか。何気ないものが、語りかけてくる。それをどこかに置き換えて、不思議さを秘めた表現とする方法。手わざが最小限に抑えられた、変換のわざ。ただ、ほらここにこれ置くと面白いでしょ?という理論以前の直感。そのままそこに置いておいても素敵なのだが、表現したいからしょうがないのだ。
ようは、梱包は観念の形骸だが、それ自体美しくもある。味わいがあって、感性を揺らす。包まれている、というあたりが怪しげで中味が気になるし、クラフト紙と紐のそれ自体の風情が、赤瀬川を魅いたのでもあろう。もちろん千円札もそうだろうが。不思議で、「芸術」の原型のようにも見える。何気ない日用品を何気なく包んだもの。
それを表現する場に持ってきたもの。そういえばマン・レイのオブジェにもある。赤瀬川がどこまで意識的だったかはわからないが、不思議な魅力をそなえている。やっていくうちに、妙な面白みがずるずると引き出されていくのだろう。
「梱包」が現れるのは「千円札」の少し後、一九六三年三月、読売アンデパンダンの搬入時。赤瀬川の著作「反芸術アンパン」で「坩堝が割れる」と言っているように、何というかまあ、凄まじくエスカレートし、爆発というか、坩堝が割れたらしく、結果的にその回を持って最後となる。本当に熱に満ちていたのだろう、でたらめでも馬鹿らしくとも本気のエネルギー。読売の「仕掛人」と瀧口修造氏のような「目撃者」も含め、時代の空気をまとったダイナミズムというか、そんなものを赤瀬川の文章越しに感じる。もしかすると、それは熱でなく熱に似たものだったのかもしれないが。まあ赤瀬川が言うように、芸術を志す若い人たちの間では年に一度の坩堝だったのだろう。語彙が貧しくていけないですね。終了したその後の五月には前述のハイレッド・センターの活動が始まる。高松次郎は「紐」、中西夏生は「洗濯バサミ」を出品しており、それらはそのままHRCにつながっていく。梱包と同じく、とてもシンプルで、形としてある作品というより、行為そのものを主眼においたものである。なるべくしてなったというか、同種の気分が、くっつくべくしてくっついたというか。運命と言うと、大袈裟だ。六十年代はじめ、反芸術のなか、赤瀬川という一人のマジメな前衛者のなか、「自壊した絵画」であり絵画の泥臭さ、そして自分の中の大部分は完全に壊され、「直接行動」を合言葉に行為そのものが表現とされ、やがて時とともに世の中の端々に去っていく。一瞬の火花のように。
「画家としての私は、描くものがないということを描きたかったのである」ということである。目が鋭すぎたのだろうか。廃品を探しにいく辺りからはじまったのだろうが、絵画を置き去って段々と深まっていく熱狂のなか、徐々に「創造そのものを否定」することに向かっていったのが赤瀬川さんだった。いや、他の人たちも否定はしていたのだろうが、「ある種の愚直さ」を根源的に持った赤瀬川さんは、その「否定」を詳しく丁寧に、深く深く観察していったのではないだろうか。ニュアンスとして。ゆっくりと、だが完全を求めて。「ロカビリー的喧噪」とか言われる熱狂の中、赤瀬川は全裸にもならないし、踊りもしない、ただじっと、静かに見つめている。そんな二十代。
で、梱包は面白い。ただモノを包むだけなのが作品のように見えてしまう。秘術のように。扇風機を包む、ハンガーを包む、カーペットを、自転車を、◯を、◇を、×を★を…。いたってシンプル。このあたりで画家は泥臭さを消し去り、代わりに赤瀬側の文学性が蠢き始める。包む、というモチーフをめぐって。人体も「あいまいな海」の梱包だし、ナマエも無名のなにかの梱包である。理念をこねくり回しているうちに、地球の梱包、宇宙の梱包まで話は行き着く。切りがない。そこで「宇宙の缶詰」という冗談のような作品によって赤瀬川は梱包を終わらせる。資金もないし、多分、飽きてきたのもあるだろう。そりゃ飽きそうだ。この作品は非常に面白く、私は大好きなので後の項にて、また。
(次項へ)
オラわくわくしてきたぞw on b o o k s mar + apr
みんなホントにオナ鑑だけなの? on b o o k s mar + apr
脇コキって言うねんな(爆笑) on b o o k s mar + apr